幾何学の精神=理性・論理で推論・データ重視 繊細の精神=感性・感度のいいアンテネ・感情・直感・ささいなことに気づく鋭さ この2つの精神がどちらか一方に偏らずに、合わせもつことができると良い整体ができると思っています。 (整体だけに限らず、何事にもあてはまりそうです) その人、その時の状態、疲れ具合、硬さ、声のトーンなど、ささいな変化に気づき、今までのデータと照合して、わかりやすく説明して 施術する。パスカルの考えを見て、改めて大事だと思いました。
人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。 葦は茎は細いので、少しの力でも曲がる。樫の木は少しの力では微動だにしない。しかし、台風など強い力がくると、樫の木は折れてしまう。葦は同じように曲がるが柔軟なので折れずに復活する。人は弱い存在だが、考えることができるので強い。考えることで人は強くなる。人の弱さはそれを知る人よりそれを知らない人達の方にずっと現れている。 しんどい、疲れた、すぐ凝るとか言っている人のほうが、自分の弱い部分を理解して、ケアしていることが多いと思います。 大きなケガや病気になったり、近くで見たり、自己鍛錬したりしていると、体のことを考えるようになり、自分の弱い部分を補おうとなっていくのかなと、思いました。何気なくパスカルの言葉を見ていたら、整体に通じることがありましたので、載せてみました。体のことは、心の部分、その人の考えや気分もすごく影響されますので、心を整理して考えるのにいいヒントになればと思います。
下の文章は難しいですが、何回も読むと段々とわかってくるようなこないような・・ 参考までに
「人間が偉大なのは、自分が悲惨だと知っているという点において偉大なのである。木は自分が悲惨だと知らない。」「人間は天使でも、けだものでもない。」「人間とはまあ、キマイラみたいなものではないか。なんという珍奇なもの、なんという怪物、なんという混沌、なんという矛盾のかたまり、なんという驚異だろうか。すべてのものの審判者でありながら、愚かな土中のみみず、真理を託されたものでありながら、不確実と誤謬の掃きだめ、宇宙の栄光であって宇宙の屑。」「けっきょく、自然のなかで人間とはなにものなのだろうか。無限に比べれば無、無に比べれば全体、無と全体との中間。両極端を理解することからは限りなくへだてられているため、物事の終わりとはじめとは、人間にとってはどうしようもなく底知れぬ神秘のなかに隠されている。人間は、自分が引き出されてきた無をも、自分が呑み込まれていく無限をも、等しく見ることができない。」「人間は一本の葦にすぎない。自然のなかでいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である。これを押しつぶすには、全宇宙はなにも武装する必要はない。一吹きの蒸気、一滴の水でもこれを殺すに十分である。しかし宇宙が人間を押しつぶすとして、人間はなお殺すものよりも尊いであろう。人間は、自分が死ぬこと、宇宙が自分よりも勝っていることを知っているからである。宇宙はそんなことはなにも知らない。だから、私たちの尊厳のすべては考えることのうちにある。まさにここから、私たちは立ち上がらなければならないのであって、空間や時間からではない。私たちには、それらを充たすことはできないのだから、正しく考えるように努めようではないか。いかに生きるかの根源はここにある。」「人間は自分が死ぬことを知っている。宇宙はそんなことはなにも知らない。だから、私たちの尊厳のすべては考えることのうちにある。……だから、正しく考えるに努めようではないか。」「人間はいつも、絶望するか、傲慢になるかというふたつの危険にさらされている。」 |
矛盾するかのようなパスカルの言葉であるが、彼は人間の本質を中間性であると考え、その中間性に積極的な側面と消極的な側面を見て取っているのである。 |
人間は考える葦である