二つの極「もの」と「いのち」

*整体、健康観で共感したものを抜粋*

生物の進化をみていくと、発達した高等な器官ほど分業化され迅速で単純な反応を行い、対象の多様さに対応できるようになっています。

それだけ相手を細かく分類し、わずかの変化にも順応していく体制が整っているわけです。

科学がこのような働きによって自然を秩序づけているのですが、その器官と共にその対象も生命の原始的な姿から次第に遠ざかっていきます。

高等な器官ほど、それを除外しても直接生命維持に関わりない場合が多く、その器官を扱う対象もまた生命から遠ざかってますます客観的な存在になっていきます。

このようにして人間にあっては、すべてに二つの極、「もの」と「いのち」の異なった世界像ができあがったのです。

大脳新皮質の働きが高度にすすんで物質文明は急速に進化しましたが、それだけ生命にかかわりの深い大脳辺縁系の活動は抑えられて、いのちの機能が低下してきたのです。

病人が増え、生活を正常に営めない人が多くなり、社会から脱落していく現象が欧米先進国に多くみられるようになったのはそのあらわれです。

文明国を誇っていた欧米が、原始にあこがれ、東洋の神秘に魅力を感じるのは、生命に回帰しようとする本能からでしょう。

大脳新皮質の発達した人間が、先祖帰りをするように原始的な生活を求めても真の生命感は得られないでしょう。

ただ東洋の文物にふれることで生命に接近できても、自ら生命を感じるところにまで到れるでしょうか。

禅をすることが欧米で流行しはじめましたが、これを指導するだけの力は日本にさえ乏しくなってきています。

西洋医学の行き詰まりを東洋医学によって解決しようとしても、正しい生命感が東洋自体に失われつつあります。

「いのち」はまさに「もの」の対極に求められねばならないのです。

判別性感覚の発達した人ほど原始感覚は鈍感になってきています。

文明生活を知らない人たちの鋭敏さは、想像をはるかに越えた驚異です。

新皮質の生活にいったんなじんだものが、そうした原始感覚を取り戻すことは困難です。

古来宗教の悟りは、この日常生活の対極にある「いのちの世界」の発見を目指していたようですから、禅などの修行が必要になってくるかもしれません。

*人の身体に触れるとき、整体するとき、肩凝り・腰痛と訴えがあるとそこを中心に施術していきがちです。まぁそれも必要なことですが、それ以上に、全体的観点を持ち、いのちが元気が湧き出るように、またそれを互いに感じれるようにすることはもっと求められることなんだ、そっちのほうが本質なんではと思いますね。精進あるのみ*